歴史

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 廣瀬大社 
   旧社地絵図
 
 
 

~当社縁起~

崇神天皇九年(前89年)、廣瀬の河合の里長に御信託があり、一夜で沼地が陸地に変化し橘が数多く生えたことが天皇に伝わり、この地に社殿を建て、祀られるようになる。 
        

〜日本書紀〜

天武天皇四年四月十日(675年)に小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曽根連韓犬を斎主として、大忌神を廣瀬の河曲に祀られたことが記されている。これが毎年四月四日と七月四日に行われた大忌祭の始まりと伝えられる。
        

 

 史伝・社伝伝説
 
天武天皇以降、御歴代の天皇より風雨の調和、年穀の豊穣等の御祈願がされ国家の瑞祥、または禍害あるごとに、奉告御祈願されました。
 
日本書紀

天武天皇十三年秋七月 廣瀬ニ幸ス。  

-天武天皇十三年(684年)秋七月、廣瀬神社に行幸される。
 
 
三代実録

陽成天皇天慶二年七月二十六日大和国廣瀬龍田両社倉各一宇ヲ造立ス。同三年六月十四日大和国廣瀬龍田云々神社ニ遣シ神財ヲ奉ラ使ム。  


-陽成天皇天慶二年(939年)七月二十六日、大和の国の廣瀬・龍田の両社に倉を建てさせられた。同十三年六月十四日、これらの神社に使いを遣わして建立された倉に財宝を納められた。
 
 
延喜式

凡ソ、春日、廣瀬龍田等社庫ノ鑰匙ハ官庫ニ納置キ、祭使官人祭ニ臨ミテ、請ヒ取ル。事畢リテ返納ス。 


-春日・廣瀬・龍田の社庫の鍵は、神祇官の倉に納められており、お祭りの時派遣される勅使が、社庫の鍵を持ってこられ、お祭りが終わると神祇官に返納された。
 
 
社 伝

社地は元水足池(みずたるのいけ)という広漠たる沼地であったが、里長廣瀬臣藤時に御神託があり、俄に陸地となり、一夜にして丈余の橘数千株が生じた。
今拝殿の西側に小池があり、これを水足池という。又、当社の社紋『橘』はこの社伝による。
天武天皇十三年七月、当社行幸のみぎり、新たに廣瀬川(現大和川)に架橋して龍駕を奉納したことから、この所を御幸瀬(ごごかぜ)と称し、橋を御幸橋(みゆきばし)と名付けられた。



 社 格
  
延喜式神名帳記載(式内社)名神大社、月次、新嘗、朝廷奉幣二十二社の内の中七社の一社で、嵯峨天皇弘仁十三年(823年)八月三日従五位、白河天皇永保元年(1081年)七月十日正一位を授けられ、明治四年(1872年)五月十四日官幣大社となりました。


旧社領

室町時代頃には本社大神の御位田八十町、相殿二座及び摂社の三座に各二十町ほか、神地封土等を合わせ、凡そ五百余町を保有していましたが、永正年間に細川管領の家門に押領され、また天正年間(1580年)に大和大納言豊臣秀長に没収されたことにより、社領が減少し衰頽しました。

 

 宝 物
  
社蔵の宝物古文書等は、永正三年(1506年)沢蔵軒の兵火にかかり、ことごとく灰燼に帰しました。僅かに大永二年(1523年)百済寺僧学辧が書き写した「河相宮縁起」、年代不詳の「旧社地絵図」、元禄十三年(1701年)春日若宮神主中連祐字の記した「廣瀬社勘文」等が伝わるだけです。


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